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Descartes, Principia philosophiae, 1.04

ラテン語原文

4. Cur possimus dubitare de rebus sensibilibus.

 

Nunc itaque, cum tantum veritati quaerendae incumbamus dubitabimus inprimis, an ullae res sensibiles aut imaginabiles existant: primo, quia deprehendimus interdum sensus errare, ac prudentiae est, nunquam nimis fidere iis, qui nos vel semel deceperunt; deinde, quia quotidie in somnis innumera videmur sentire aut imaginari, quae nusquam sunt; nullaque sic dubitanti signa apparent, quibus somnum a vigilia certo dignoscat. 

ラテン語からの訳出

4. なぜ可感的事物について疑うことができるか。

さて、こういうわけで、探究されるべき真理にのみ関わるとき、まずは、なんらかの可感的ないし可想的事物が実在するかどうかを疑うことになる。なぜなら、まず、時に感覚が誤るのを見出すし、わたしたちを一度であれ欺いたものには決して過度な信頼をおかないのが賢明だからである。そして、いつも夢では、まったく存在しないものを数えきれないほどわたしたちは感覚したり想像したりしていると思われるからである。そのように疑うひとにとって、眠りを覚醒から確かに区別するようないかなる印も現れることはない。

ピコによる仏訳

4. Pourquoi on peut douter de la vérité des choses sensibles.

 

Mais, pour ce que nous n'avons point d'autre dessein maintenant que de vaquer à la recherche de la vérité, nous douterons, en premier lieu, si de toutes les choses qui sont tombées sous nos sens, ou que nous avons jamais imaginées, il y en a quelques unes qui soient véritablement dans le monde : tant à cause que nous savons par expérience que nos sens nous ont trompés en plusieurs rencontres, et qu'il y aurait de l'imprudence de nous trop fier à ceux qui nous ont trompés, quand même ce n'aurait été qu'une fois ; comme aussi à cause que nous songeons presque toujours en dormant, et que pour lors il nous semble que nous sentons vivement et que nous imaginons clairement une infinité de choses qui ne sont point ailleurs, et que, lorsqu'on est ainsi résolu à douter de tout, il ne reste plus de marque par où on puisse savoir si les pensées qui viennent en songe sont plutôt fausses que les autres.

仏訳からの訳出

4. 可感的事物の真理についてなぜ疑うことができるか。

さて、真理の探究にとりかかる以外のいかなる計画もいまや持ちあわせていないのだから、第一に、わたしたちの感覚を通じて出会われた、ないしは、わたしたちがかつて想像したすべての事物のうち、真に世界のうちに存在するものがあるのかどうか、わたしたちは疑うことになるだろう。感覚がわたしたちをことあるごとに欺いてきたことを経験から知っているし、わたしたちを欺いたことのあるものを信じすぎるのは、たといそれが一度きりだったとしても、賢明でないというものだからである。それだけでなくまた、わたしたちは毎日のように眠っているとき夢を見るし、そのときわたしたちにはいきいきと感覚していると思われていて、他の所にはなんら存在しない無数の事物を明晰に想像するわけだが、このようにすべてを疑うと決心したとき、夢のなかに現れた思惟が他〔の思惟〕よりもむしろ偽であるかどうかを知ることができるような印は、もはや残ってはいないからである。

註釈

可感的事物について疑うとはどういうことか

やや先走った書きぶりだという印象を受けた。

わたしたちがまず可感的事物を疑うことになる理由として quia 節で述べられるべきなのは、可感的事物の存在が疑われる理由ではなく、可感的事物を第一に扱う理由ではないだろうか。山田らの指摘に拠れば、「まず感覚によって得られた認識からはじめて、そこから次第に知的な概念を形成して行く、というのが伝統的な考え方」だったからである*1。この前提があって初めて、可感的事物をまず疑うことが説得的になる。「そもそも感覚のうちになかったいかなるものも、知性のうちにはない」*2という格率が『哲学原理』の読者に遍く共有されていたとしてもなお、 quia 節の記述の不協和は否定できないだろう。

いまひとつ問題がある。「時に感覚が誤るのを見出すし、わたしたちを一度であれ欺いたものには決して過度な信頼をおかないのが賢明だから」という理由で、なぜ可感的事物が実在するかどうか an ullae sensibiles aut imaginabiles existant が問題になるのだろうか。時に感覚が誤るから、感覚に由来することがらを信じないことにするというのは理解できる。しかしながら、感覚に由来していることがらを成すすべての部分が誤りだと言うことはできるのだろうか。この点について、『省察』ではずっと精緻な議論が行われている。要約すると次のようになるだろうか:

  1. 感覚は時としてわたしたちを欺く(例:四角柱の塔を遠くから見たら円柱に見えた)。
  2. 感覚に由来するが、なお疑いえないと思われるものはある(例:わたしがここにいること*3)。
  3. 夢を見ているとすれば、そのときに感覚に由来していると思われたことがらは偽である。夢で見たことがらは現実ではない。しかも、夢と覚醒とを区別する徴表はまったくない*4だから、感覚に由来するものは信じてはならない。
  4. 夢の内容がすべて偽であるとはまだ断定できない。たとえば、夢で見た「可感的事物」の色そのものは、そういう色があるという意味においては、疑うことができない。このように、感覚が誤るといくら主張したとしても、それでもなお、疑うことができていないものはある。特に数学的真理はそうである。

このような手続きを経てから、数学的真理を懐疑する試み(次節)へと進んでいかねばならない。『哲学原理』の議論は極めて簡略化されていると言わざるをえない。デカルトの意図は解らないが、可感的ないし可想的な事物が存在しないことにしてしまえば、『省察』で展開されたような煩瑣な過程を省略できると考えているのかもしれない。もしそうであっても、上記の 4. については否定できていない以上、感覚に由来するものに含まれるすべてが偽だと見做されるべきであると主張するのは不当であると言わざるをえない。問題は、可感的事物が存在するかどうかではなく、懐疑の対象を数学的真理に限っても充分かどうかだからである。

可想的事物とはいかなるものか

可感的事物についてはさしあたりよいことにしよう。ただ、いまひとつ、可想的事物 res imaginabiles とはいかなるものなのだろうか。本節では可感的事物ばかりが吟味されているように見えるが、可想的事物はどこへ行ってしまったのだろうか。あるいはそもそも、どうしてここで扱われようとしていたのだろうか。

桂は res imaginabiles を「表象的事物」と訳したうえで、「imaginatio は今日の想像とはやや異り、体内の動物精気によって起る作用として、感性的なものと考えられた」*5という訳註をつけている。「表象的」という訳語が妥当であるかは別にして、 imaginatio は確かに感性的なものだと考えられていたようである。デカルトは『方法序説』第四部──先程の引用箇所の直前──で述べている:

... ils sont tellement accoutumés à ne rien considérer qu'en l'imaginant, qui est une façon de penser particulière pour les choses matérielles, que tout ce qui n'est pas imaginable leur semble n'être pas intelligible. (AT VI 37)

 

〔…〕彼らは、〔想像するというのは〕物質的事物 les choses matérielle に特有の思惟のしかたであるにもかかわらず、想像しながらでなければいかなるものも考察しないことに慣れきっているあまり、可想的でないすべてのことがらは、彼らにとっては可知的 intelligible ではないと思われるほどなのである。

想像することは、デカルトにおいてはあくまで物質的事物、すなわち可感的事物に属する*6ことである。従って、可感的事物についての認識がいったんは棄却されてしまうのだから、可想的についても大筋では同じ議論が適用できるということなのだろう、と考えるしかない。

仏訳について

節題が好ましくないと感じた。 "Pourquoi on peut douter de la vérité des choses sensibles" と、なぜわざわざ "de la vérité" を挿入したのだろうか。意味が同じなら不要な語句を挿入すべきではないし、意味が違うならそもそもまずいであろう。

ひとつ弁解しておきたい。 "les pensées" にあてる訳語はかなり迷った。ここでは、「論理的思考」といった意味ではないからである。雑駁な言いかたをするなら、「精神のなかで意識されているもの」という程度の意味である。「思いなし」なども考えたが気に入らなかった。 そこで、さしあたりは「思惟」とそのまま訳して、註釈をつけるというしかたで妥協することにした。

*1:デカルト『哲学原理』山田・吉田・久保田・岩佐訳、ちくま学芸文庫、2009年、 pp. 52-53.

*2:デカルト方法序説』第四部(AT VI 37)

*3:所謂「コギト」とは異なる。「暖炉のそばに座っていること」など、ごく日常的な意味である。

*4:覚醒時と睡眠時とにおける知得 perceptio を区別する実践的基準 les critères pratiques が第六省察で述べられている、とデュランダンは指摘している(Descartes, Principes de la philosophie: Première partie - Lettre préface, traduction de l'abbé Picot, introduction et notes de G. Durandin, Vrin, 2009, p. 45)。しかしながら、第六省察で提示される記憶の一貫性という基準は、あくまで「実践的な説明ではあっても理論的解明ではないと思われる」(デカルト『哲学原理』山田・吉田・久保田・岩佐訳、ちくま学芸文庫、2009年、 p. 54)と言うべきである

*5:デカルト『哲学原理』桂寿一訳、岩波文庫、1964年、 p. 157.

*6:「属する」とは、可感的事物について知るときにはたらくという意味である。ただし、「想起する reminisci」場合も想像力 imaginatio が作用している(デカルト『精神指導の規則』第十二規則(AT X 415-416))ので、可感的事物について知る場合のシミュレーションでもありうるのかもしれない。どこまで信用できるかは明らかでないが、本節の仏訳での imaginer の用法に注意しておいてもよいかもしれない。「他の所にはなんら存在しない無数の事物を明晰に想像する nous imaginons clairement une infinité de choses qui ne sont point ailleurs」ということは、可感的事物を感覚する場合と同じ効果を、可感的事物なしに得られていることになるだろう。