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Descartes, Principia philosophiae, 1.03

ラテン語原文

3. Hanc interim dubitationem ad usum vitae non esse referendum

 

Sed haec interim dubitatio ad solam contemplationem veritatis est restringenda. Nam quantum ad usum vitae, quia persaepe rerum agendarum occasio praeteriret, antequam nos dubiis nostris exsolvere possemus, non raro quod tantum est verisimile cogimur amplecti; vel etiam interdum, etsi e duobus unum altero verisimilius non appareat, alterutrum tamen eligere. (AT VIII 5)

ラテン語からの訳出

3. とはいえ、このような懐疑は日々の実践に持ち出されるべきではないということ。

しかし他方で、このような懐疑は真理の観想に対してのみ向けられるべきである。懐疑から解き放たれる前にことをなすべき機会は往々にして過ぎ去ってしまうゆえ、日々の実践においてわたしたちは、単に真らしいものを受け入れざるをえないこともまれではないからである。あるいはまた、時として、ふたつのうちの一方がいま一方よりもさらに真らしいと思われないという場合があったとしても、それでもなおどちらかを選ぶことを強いられることもあるからである。

ピコによる仏訳

3. Que nous ne devons point user de ce doute pour la conduite de nos actions.

 

Cependant il est à remarquer que je n'entends point que nous nous servions d'une façon de douter si générale, sinon lorsque nous commençons à nous appliquer à la contemplation de la vérité. Car il est certain qu'en ce qui regarde la conduite de notre vie, nous sommes obligés de suivre bien souvent des opinions qui ne sont que vraisemblables, à cause que les occasions d'agir en nos affaires se passeraient presque toujours, avant que nous pussions nous délivrer de tous nos doutes. Et lorsqu'il s'en rencontre plusieurs de telles sur un même sujet, encore que nous n'apercevions peut-être pas davantage de vraisemblance aux unes qu'aux autres, si l'action ne souffre aucun délai, la raison veut que nous en choisissions une, et qu'après l'avoir choisie, nous la suivions constamment, de même que si nous l'avions jugée très certaine. (AT IX 26)

仏訳からの訳出

3. 行動の導きのためには、わたしたちはこのような懐疑を決して使用してはならないということ。

しかしながら、真理についての観想を行い始めるときを除けば、懐疑の極めて全般的なしかたを採用してはならないとわたしたちはまったく理解していない、ということは銘記されるべきである。なぜなら、わたしたちの実生活の導きに関わるものにおいては、わたしたちがそのような懐疑から解き放たれることができる前に、問題に対して行動する機会は殆どいつでも過ぎ去ってしまっているものゆえ、真らしいだけの意見に従わざるをえないことはごくありふれているからである。そして、同じことがらについてのそういった意見がたくさんあって、しかももしかすると、真らしさをあるものに対してと他のものに対してとでより多く見出すということがないかもしれないが、もし行動が少しも遅れを許さないとすれば、理性はそのうちのひとつを選ばざるをえないだろうし、選んでしまった後は、極めて確実だと判断した場合と同じようにそれに全面的に従わざるをえないのである。

註釈

ラテン語原文の usus vitae をどう訳すかがひとつのテーマである。山田ら・桂がともに採用している「実生活」という訳語は充分了解できる。しかしながら、 usus vitae は contemplatio veritatis と対比されているのだから、「人生」とか「生活」では厳密に言うと正しくないと思われる。観想 contemplatio の対義としてはやはり実践 praxis をまずは考えたい。

日々の実践 usus vitae においては、何に対してもまずは同意を差しひかえて、真理を綿密に探究する暇が与えられるとは限らないし、実際には殆どありえないだろう。実践的には、その時々の行動においていちいち懐疑を開始することはできない。観想と同じように実践に臨まれては立ちゆかないので、とりあえず何がしかの意見を採用していくしかないということである。

濫用すれば決断不能に陥ることが容易に想定されるので、方法的懐疑を日々の実践に持ち出してはならない。

さて、デュランダンは本節の末尾に次のような脚註をつけている:

デカルトの懐疑は方法的懐疑であって、懐疑論的 sceptique 懐疑ではない。懐疑論者たちは、その意見において不確実ゆえ、行動において決断不能 irrésolu に陥る危険性を持つ。しかし、精神を誤謬からたちきり、学問の真なる原理を発見するためだけに懐疑を行っているデカルトは、懐疑論者のしかたで行動が決断不能になることはない。決断不能性は時を浪費してしまう。実生活 la vie pratique においては、たとい確実な意見がなかったとしても、決断したうえで、その決断に従う必要がある。事物の秩序を認識できていないときであっても、行動の秩序を受け入れることができなければならないのである。

決断と懐疑とのこのような結合は、デカルト的な知識 sagesse の独自性と力とをつくりだしている。『方法序説』第3部、第2格率を見よ*1

デカルトはそこで言っている。

Ma seconde maxime était d'être le plus ferme et le plus résolu en mes actions que je pourrais, et de ne suivre pas moins constamment les opinions les plus douteuses, lorsque je m'y serais une fois déterminé, que si elles eussent été très assurées. (AT VI 24)

 

わたしの第二の格率は、わたしの行動においてはできるだけゆるぎなく断固としていること、そして、ひとたび決定したなら、どれほど疑わしい意見であれ、極めてしっかりした意見だった場合に劣らず全面的に従うことである。

格率の是非はともかく、デカルトの態度は一貫していると思われる。しかし、なぜそういう態度を取ることになるのか、充分な説明はなされていない。

*1:Descartes, Principes de la philosophie - Lettre préface, traduction de l'abbé Picot, introduction et notes de G. Durandin, Vrin, 2009, p. 45.