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Descartes, Principia philosophiae, 1.02

ラテン語原文

2. Dubia etiam pro falsis habenda.

 

Quin & illa etiam, de quibus dubitabimus, utile erit habere pro falsis, ut tanto clarius, quidnam certissimum & cognitu facillimum sit inveniamus. (AT VIII 5)

ラテン語からの訳出

2. さらに、疑わしいものは誤っているものとして扱われるべきであること。

そしてさらには、どのようなことが最も確実で、認識するのが最も容易なのかを、さらにずっと明晰に看て取るためには、わたしたちが疑っていくことになるものは誤っていると捉えることが、有益であることだろう。

ピコによる仏訳

2. Qu'il est utile aussi de considérer comme fausses toutes les choses dont on peut douter.

 

Il sera même fort utile que nous rejettions comme fausses toutes celles où nous pourrons imaginer le moindre doute, afin que, si nous en découvrons quelques unes qui, nonobstant cette précaution, nous semblent manifestement vraies, nous fassions état qu'elles sont aussi très certaines, et les plus aisées qu'il est possible de connaître. (AT IX 25)

仏訳からの訳出

2. そして、疑うことのできるすべてのことがらを誤りだと考えることは有益であるということ。

ごくささいであるにしても懐疑が想定できてしまうようなすべてのことがらを誤っているとして退けることもまた──こうした用心をしているにもかかわらず、そのようなことがらのうちで、明白に真であるとわたしたちには思われるものを見つけたときに、それがなるほど極めて確実で、しかも認識することができるもののうちで最も容易だという評価を与えるためにも──同様に極めて有益になることだろう。

註釈

「方法的懐疑」の説明が簡単になされた箇所である。「疑わしいものは誤っているものとして扱」うのは、論理的な推論としては誤っている。なぜなら、誤っているかもしれないものは、端的に誤っているとは限らず、正しいこともあるかもしれないからである。ガッサンディライプニッツが批判しているように*1、「不確実である」というのが正当である。けれども、デカルトの目的は、最も確実なものを見出すための用心 précaution としての懐疑だと思われる。ひとたび疑わしいとなれば、どれほど正しそうに見えてもいっさい依拠せず、あえて棄却するという態度表明と考えるべきだろう。デュランダンは第2節の表題に対して「デカルトは真理において度合を容認しなかった。デカルトにとって「真らしい vraisemblable」ものは、学問においていかなる位置づけも与えられていなかったし、だから、単に真らしいものすべては誤りだと考えられる必要があるのである」*2という脚註を与えている。

今回の箇所の訳文については、山田ら・桂ともに問題のないものだと考える。

*1:デカルト『哲学原理』山田・吉田・久保田・岩佐訳、ちくま学芸文庫、2009年、 p. 45.

*2:Descartes, Principes de la philosophie: Première partie - Lettre préface, traduction de l'abbé Picot, introduction et notes de G. Durandin, Vrin, 2009, p. 44.