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Descartes, Principia philosophiae, 1.01

ラテン語原文

1. Veritatem inquirenti, semel in vita de omnibus, quantum fieri potest, esse dubitandum.

 

Quoniam infantes nati sumus, & varia de rebus sensibilibus judicia prius tulimus, quam integrum nostrae rationis usum haberemus, multis praejudiciis a veri cognitione avertimur; quibus non aliter videmur posse liberari, quam si semel in vita de iis omnibus studeamus dubitare, in quibus vel minimam incertitudinis suspicionem reperiemus. (AT VIII 5)

 ラテン語からの訳出

 1. 真理を探究する者は、一生に一度は、すべてのことについてできる限り懐疑すべきであるということ。

 わたしたちは幼児にうまれ、理性を全面的に使用する前から可感的事物についてさまざまな判断をくだしてきたので、たくさんの先入見によって真なる認識から遠ざけられてしまっている。たといどんなにささいであるにしても、不確実だという疑いがそのなかに見出されるようなものすべてについて、一生に一度は努めて懐疑してみるのでなければ、そのような先入見から解放されることはできないと思われる。

ピコによる仏訳

1. Que pour examiner la vérité il est besoin, une fois en sa vie, de mettre toutes choses en doute, autant qu'il se peut.

 

Comme nous avons été enfants avant que d'être hommes, et que nous avons jugé tantôt bien et tantôt mal des choses qui se sont présentées à nos sens, lorsque nous n'avions pas encore l'usage entier de notre raison, plusieurs jugements ainsi précipités nous empêchent de parvenir à la connaissance de la vérité, et nous préviennent de telle sorte, qu'il n'y a point d'apparence que nous puissions nous en délivrer, si nous n'entreprenons de douter, une fois en notre vie, de toutes les choses où nous trouverons le moindre soupçons d'incertitude. (AT IX 25)

仏訳からの訳出

 1. 真理を探究するためには、一生に一度は、できる限りすべてのことに疑いを向けることが必要であるということ。

 わたしたちは大人になる前は幼児だったのであり、そして、理性をまだ全面的に使用していないときに、感覚に現れたものについて善いとか悪いとか判断してきたので、早まってなされたさまざまな判断は、わたしたちが真理の認識へと至るのを妨げているのであって、そして、不確実だという疑いをごくささいであっても見出されるようなすべてのことがらについて、一生に一度は懐疑してみるのでなければ、わたしたちはそのような判断に妨害されつづけ、偏見から解放されうるという見込みはついにまったくなくなってしまうのである。

註釈

 理性の全面的な使用 integer nostrae rationis usus については、「理性を正しく導く bien conduire、理性の機能を十分に開発 cultiver する、それを十全に活用 appliquer する、という発想が根本にある」という山田弘明らの指摘*1が正当だと思われる。そうだとすれば、ピコの仏訳にある "hommes" は「〔分別のある〕大人」と訳すべきだと思われる。

 ピコの訳文に

que nous avons jugé tantôt bien et tantôt mal des choses qui se sont présentées à nos sens

という箇所があるが、やや誤解を招く表現である。判断する juger とは、必ずしも善悪の判断ではないからである。もっと一般に「A は B である」と考えて断定することである。たとえば、山田らが註解で挙げている「地球が不動で宇宙の中心に位していると無造作に想定」*2することが、ちょうど判断のひとつの例となっているだろう*3。だから、 "tantôt bien et tantôt mal" という文言は不要であり、有害ですらある。

 仏訳の "préviennent" すなわち prévenir および "précipités" の意味はすぐには了解できない。しかし、デュランダンが脚註で指摘しているように「〔デカルトに拠れば〕誤謬のふたつの主要な原因は、偏見 prévention ないしは先入見 préjugé と、早とちり précipitation とである」*4ということであろう。わたしはデュランダンの意見に従って訳出した。

 さて、今回の箇所について、山田ら*5は概ね正確に訳していると思われる。「そうした先入見から解放されるためには」という目的の意味は本文にないものだが、 non aliter X, quam si Y (「Y である場合以外に X ではありえない」)という構文を愚直に訳すと読みづらくなると判断したのだろう。翻訳上の工夫としては充分理解できる。桂寿一*6も同様であった。しかし、読みやすい日本語にするための工夫をわたしはあえて排し、できるだけもとの構文に忠実に訳してみた。

*1:デカルト『哲学原理』山田・吉田・久保田・岩佐訳、ちくま学芸文庫、2009年、 p. 40.

*2:デカルト『規則論』第13規則, AT X 436.

*3:この場合は誤った判断だが、判断がすべて誤っているわけではなく、正しい判断もありうる。

*4:Descartes, Principes de la philosophie: Première partie - Lettre préface, traduction de l'abbé Picot, introduction et notes de G. Durandin, Vrin, 2009, p. 44.

*5:デカルト『哲学原理』山田・吉田・久保田・岩佐訳、ちくま学芸文庫、2009年、 p. 39.

*6:デカルト『哲学原理』桂寿一訳、岩波文庫、1964年、 p. 35.